JR大阪駅地下道の壁面を飾るトリック壁画『梅田バーチャルコリド-』(Art Scene2)2014/01/16 23:40

 昨年3月に東京・渋谷の岡本太郎「明日の神話」を(Art Scene 1) として紹介したが(Art Scene 2) を書けないまま時が経過した。街中のアート・シーンとして紹介できそうなものはそう多くないのだ。
 JR大阪駅桜橋口からJR東西線北新地駅に向かう地下通路の壁面両側を飾るトリックアート「梅田バーチャルコリドー」を紹介する。
 画家の神山宣耀(かみやませんよう)さんが2002年に描いた大壁画である。日本サインデザイン協会SDA賞の準優秀賞受賞作でもある。
 この地下通路壁面が無地のままだったら、歩く人にとって随分味気ないただの長いトンネル通路になっていただろう。人々の心を明るくする効果は確かにあるように思う。
JR大阪駅地下通路の大壁面画「梅田バーチャルコリドー」と行き交う人々が溶け合う

 トリックアートであるから、描かれている人物も等身大であり、実際にはまずありえない動作をしている。
JR大阪駅地下通路の大壁面画「梅田バーチャルコリドー」の一部

木島櫻谷の掛軸「早梅」を床の間に掛けました2013/12/30 16:03

 床の間の掛軸を正月に相応しいものに交換しようと押入れを探しました。真っ先にに取り出した漆塗りの箱のラベルを見ると筆者「櫻谷先生」、画題「早梅図」、備考「絹本××」と読み取れます。今まで掛軸の作者名を確かめたこともありませんでした。先日、「木島櫻谷-京都日本画の俊英」展を2度も見に行ってきた直後だけに、「櫻谷」作品が自宅にあったことに驚きました。
 漆箱の中に桐箱が納まっていて、その表書きが「早梅」、蓋裏に「櫻谷」の署名と印が押されています。作品右下の落款と書体が一致します。いわゆる共箱です。先日の展覧会で買った図録の落款と比べても同一と思われます。
 この家の床の間に対しては掛軸が長すぎ天井近くまで持ち上げないと軸が床に届きそうです。そのことから両親が大阪大空襲のあと京都へ疎開した時期に入手したものと思われます。
 展覧会を見た後でなければラベルの「櫻谷」を見ても気が付かなかったと思います。最近、恐ろしいほど偶然が続きます。驚いています。好事魔多しと心配です。
木島櫻谷「早梅」を床の間に掛けました
 藁葺き屋根の左側、梅の花がちらほら咲き始めているようです。上弦の月が掛かっています。先日展覧会で見た「寒月」に近い雰囲気が感じられます。あなたはどう思われますか。
 画題が「早梅」ですから2月に掛けるのが適当と思います。掛軸を探す前は福禄寿や鯛の絵柄でも掛けようかと思っていたのですが、せっかくの“発見”ですからこのまま掛けて正月を迎えます。

絵画鑑賞用の架台を自作しました2013/12/18 23:47

 所有する絵画を家庭ではどうしていますか。壁面に飾るのが通常でしょうが、それでは壁の前にじっと立っていなければなりません。美術館では立って見るのもしかたがないですが、自宅ではソファーや安楽椅子に座ったまま見ていたいですよね。そこで座ったまま眺められる架台を考えました。

 画材店で扱うイーゼルに絵を置くことも検討しましたが、観賞用架台としては不向きと判断しました。イーゼルは横木にキャンバスを置いて画家が立ったまま描くのに便利なように作られています。キャンバスが垂直ではなく少し上を向きます。横木がキャンバスを載せる目的ですから巾が浅いです。分厚い額は載せられません。

 色々頭の中で構想を練って思いついた絵画鑑賞用架台は垂直の柱が1本立っていて、そこに上下移動可能のフックが付いているだけというシンプルな形状です。その柱をいかに支えるか。四角い木枠を作って片方の長辺中央に柱を固定するという姿を思いつきました。柱が一本あるだけで空間スペースを占領しません。

 手持ちの廃材を使ったので費用はほとんど掛かっていません。屋外放置の木材なので埃で真っ黒で、合板は表面が剥がれていたり、反りが出ていたりとひどい状態です。工作を始める前に木の表面をサンダーで磨いたり、はがれかかった合板表面を接着したりと手間が掛かりました。
絵画鑑賞用の架台を手作り。まず支柱を支える長方形の枠を作る
 頭の中では60センチ×30センチと考えていた台座のサイズは長い材料があったので80センチ×40センチになりました。
絵画鑑賞用の架台を手作り。四角い枠の長辺に支柱を立てる。取り外しできるようにボルト3本で固定。
 台座に130センチの柱を垂直に取り付けました。6mmボルト3本で固定しています。片付ける際に台座と柱が分離できないと大変邪魔になります。巾6センチ厚さ26mmの柱には10せんち刻みで5mmの穴を貫通させています。この穴にL型の大折れボルトを入れて絵の吊り紐を支えるフックにします。蝶ナットを使って手で簡単に取り外せ、別の穴に移動できるようにしています。
絵画鑑賞用の架台を手作り。F6号の日本画を掛けてみる。
 書斎に置いて絵を掛けて見ました。フック用の大折れボルトは手前よりも裏側に取り付けた方が絵が柱に張り付いて垂直になります。6号の日本画です。重さが4.5キロあります。昔の額はガラス入りで重たいです。柱が少し前方に傾きます。倒れたり壊れたりする心配は無いですが台座部分の合板が弱すぎました。もっと厚いか巾がある硬い木材が必要です。改良が必要です。でもソファーに座って目の前にある堂本印象画伯の「空にかがやく桜」を眺めているのは大変心地良い気分です。
絵画鑑賞用の架台を手作り。F12号の油彩画を掛ける。ハンガーボルトを裏側に取り付けると絵が垂直になった。
 今度はもっと大きい12号の油彩画を掛けてみました。ハンガーボルトを止めている蝶ナットが絵の背面に当たるのを避けるため吊り紐を長くしました。この状態が一番具合が良いです。完全に額が柱に張り付いて絵が垂直になりました。新しい額はアクリル板が使われていて軽いですがそれでも5キロです。この絵は野崎利喜男画伯の「楡の木(北大植物園にて)」です。フォービズムを体現したこの絵からは楡の木が遅い春を迎えた今、躍りだしそうな躍動感が伝わってきます。思い出の場所ですし大好きな絵です。

泉屋博古館を再訪して、木島櫻谷の「寒月」を見てきました2013/12/11 21:18

 先週、「木島櫻谷-京都日本画の俊英-」展開催中の泉屋博古館(京都市左京区)を訪ねたのですが、展示替えで見れなかった「寒月」を見るため同美術館を再訪しました。
「木島櫻谷-京都日本画の俊英-」展の宣伝チラシ表面
 来年1月から東京の泉屋博古館分館で開かれる「木島櫻谷」展のパンフレットです。表面にはやはり「寒月」を載せています。月齢19か20ぐらいの月が描かれています。更待月(ふけまちづき)です。午後10時を過ぎています。竹の疎林や名残りの野菊がちらほら見える雪原は深々と冷え込んで身が凍りそうな寒さです。霧も少し漂う中を狐が辺りをうかがうように用心深く歩を進めます。孤独なキツネの姿が更に凍てつく冷え込みを感じさせます。
 墨で描いた竹幹や潅木の葉の上には暗青色を彩色している。茎や葉は枯れたのに花が残る野菊の描き方の繊細さ。横372センチ六曲一双屏風の端から端まで一部の隙も無く神経を張り巡らせて描かれている。絵にみなぎる張り詰めた緊張感が見るものに迫ってきます。
 この雪の竹林風景は貴船奥の院でスケッチされたのではないかと図録に解説されています。狐は京都動物園でスケッチしたようです。雪原で動物の足跡を沢山見てきた私にはこの狐の足跡は少し違和感を感じます。野生のキツネの足跡は一本の線状になります。この絵の足跡は同じイヌ科ですが、イヌ属の足跡です。
「木島櫻谷-京都日本画の俊英-」展の宣伝チラシ裏面
 同じ「木島櫻谷」展パンフレットの裏面です。六曲一双屏風「寒月」の全体が載っています。一番上に掲載の「柳桜図」は住友家が大阪・茶臼山本邸で来客を迎える際に飾る屏風を春夏秋冬に合わせ4双依頼した内の春の屏風です。壮大な住友本邸は大阪市に寄贈され、今は天王寺公園として使われている。

 追伸:木島を小島と書いていた誤りをそっと教えて下さった心優しいあなたにお礼申し上げます。

京都・東山の泉屋博古館に「木島櫻谷-京都日本画の俊英」展を見に行く2013/12/08 18:08

 京都画壇で明治~昭和に活躍した日本画家・木島桜谷(このしまおうこく)の作品展「木島櫻谷-京都日本画の俊英-」を見るために京都の泉屋博古館に出かけました。正式には櫻谷だが、一般的に桜谷と表示されることが多いようなので、ここでは簡易表現に従う。

 1877年(明治10年)京都の商家に生まれた木島桜谷は、16歳で亡父の知人で四条派の大家、今尾景年(いまおけいねん)に弟子入りし絵を学ぶ。景年は明治13年設立の京都府画学校でも教師として勤めている。桜谷も1912年(大正元年)に京都市立美術工芸学校教授に就任している。1913年(大正2年)には師景年の後をつぐ形で文展審査員に選ばれた。

 1933年(昭和8年)の第14回帝展出品を最後に、京都郊外・衣笠村に住まいを移し画壇からも遠ざかった。1938年(昭和13年)に事故死。
 2年後の1940年に桜谷の遺作や収集品を管理研究するために創設された「櫻谷文庫」と「泉屋博古館」との共催で今回の展覧会が実現した。

 会場入口でまず目にした「剣の舞」(1901年)と「一夜の夢」(1902年)はどちらも戦いに敗れて滅び行く者たち(首を刎ねられ惨殺されるであろう者たち)の前夜の姿を描いていて、見るものの胸に痛みが伝わってくる。この時期の櫻谷が描く武者や姫たちの顔つきには共通点があるように思える。

 桜谷の有名な「寒月」を探したが見当たらない。聞くと4回の展示替えがあり、第1期と第4期に展示されるのだという。この日は第3期だった。もう一度出かけるしかない。残念。
木島櫻谷の日本画展を見に泉屋博古館へ行きました。常設展の中国青銅器が唖然とするほどの名品揃いだった
 泉屋博古館(せんおくはくこかん)は住友家15代当主が主に集めた中国古代青銅器と銅鏡、その長男が集めた明・清時代の中国書画などを管理・研究・公開するために設立された財団が運営する美術館。「泉屋(いずみや)」は住友家の屋号であり、旧住友財閥系の企業には泉の文字がよく使われている。

 私が通院する大阪・中之島の住友病院一階レストランの名前も「いずみ」となっている。余談だが、住友病院は各階の壁面至る所に絵画が飾られていて、待ち時間に鑑賞して回るのを楽しみにしている。

 「木島櫻谷」展は「寒月」が無く、残念な思いがしたが、常設展示の中国青銅器のすばらしさには思わず感嘆の声を上げそうなほど驚いた。古青銅器について何の知識も無いが誰もが納得する歴史の重みが作り出した色合いと形状の調和、そして内からにじみ出る美しさが3000年以上の時を経て迫って来た。よくこれほどの名品が集まったものだ。住友家当主の財力と鑑識眼と収集時期が相まって実現したコレクションだと思う。
泉屋博古館の中庭と背景の京都・東山の紅葉
 中庭の向こうには東山の山並み、そして紅葉。立地景観を最大限に生かした美術館だが、いつまでもその風景が維持されていくところに京都のすばらしさがある。

最終日の「兵庫・神戸の仲間たち展」を見て、その後、プーシキン美術館展に足を伸ばしました2013/12/03 17:06

 2ヶ月間に渡って開かれた「神戸ビエンナーレ2013 兵庫・神戸の仲間たち展」も12月1日、最終日を迎えました。展示は前期と後期に分かれています。後期の展示を見るためBBプラザ美術館に出かけました。阪神電車・岩屋駅から南へ徒歩3分です。
 展示は前期と同じで入口近く通路状の左右の壁面を使って日本画の展示があり、その先の広いスペースの四つの壁面に洋画の展示が展開されます。展示数も前期と同じで日本画13点、洋画38点、合計51点です。

 日本画も洋画も充実した作品が並んでいます。その中でも、私の心に響いたのは、日本画では西田真人「染まる街」です。三角形のスペースに金箔を貼り詰め、そこに赤く染まって行く暮れなずむ神戸の街が描かれています。金箔が暮れゆく情景の表現効果を高めています。美しいけれど寂しさがじわじわと迫ってきます。

 洋画では、まず羽田英彦「位相1337」がインパクトがありました。画面のほとんどを赤一色で埋め尽くしています。吸引力がすごいですね。絵の前に足止めされました。

 同じく洋画の米澤光治「大運橋・恩加島付近」ですが、私には懐かしさと心の安らぎを感じる作品です。絵からは運河沿いの空気感が漂ってきます。鉛色の水のよどみの表現も見事です。好きな絵です。
 大運橋(だいうんばし)は大阪市大正区南恩加島(おかじま)の千歳運河に掛かる橋です。南恩加島を含む大正区は木津川と尻無川に挟まれた地域で千歳運河はその二つの川を結びます。この運河や両河川の周辺は鉄骨橋梁メーカーや大小の金属加工工場が密集する地域です。私の父も大正区で鉄骨橋梁メーカーの経営者を戦中から昭和49年まで勤めていて、幼かった私も何度か工場に足を踏み入れたことがあります。鉄錆の臭い、赤茶けた色彩が充満する街でした。

 BBプラザ美術館を後にして、阪神電車で二駅、三宮で降りて神戸市立博物館まで歩きます。10分ほどで「港こうべ」で一番美しい街並みの中に博物館はあります。「プーシキン美術館展 フランス絵画300年」のタイトルが示すように、ロシアの美術館が収蔵する作品の展示ですが、展示作品はほぼ全てフランス絵画です。エルミタージュといい、ロシアにはフランス絵画が大量に所蔵されています。ロシアの貴族社会ではフランスへの憧れが非常に大きなものでした。ロシア文学を読んでもフランス語がところどころに挿入されて当時の上流社会の空気が伝わります。フランス人家庭教師を雇うことも当たり前だったようです。そんな時代ですからフランス絵画の収集は当然のことだったのでしょう。
プーシキン美術館展 神戸市立博物館玄関ホールの記念写真撮影用書割
 玄関ホールにはルノワールの「ジャンヌ・サマリーの肖像」の大きな衝立(右)と蒐集した絵画を壁一面に飾った旧イワン・モロゾフ邸の一室を写したセピア色の原寸大書割(左)が置かれている。この前で記念写真をどうぞ撮ってくださいという趣向。  わりに早めに見学を終えて引き上げました。

美術館のイチョウが黄色く色づき青空に映えていた2013/12/01 00:04

 大阪市立美術館を取り巻くように植えられた年月を経たイチョウの木々。今、イチョウの葉は鮮やかな黄色に変身した。青空を背景にするとその黄色が殊の外輝きを増す。
青空を背景にイチョウの黄葉が映える=大阪市立美術館
 今年は暑さが10月初めまで続き、11月には、初雪が舞うほど寒さが早く訪れ、一体全体、秋は無くなったのか!と思わずうめいていたが、やっとここ数日は秋晴れらしい好天が続いている。この貴重な日々を大事に過ごしたいと思っている。

「第15回 丸池’69展」を拝見し、話を聞きました2013/11/22 19:35

 京都・三条柳馬場東入ルの「ギャラリー吉像堂」で11月12日から17日まで開かれていた『第15回 丸池’69展』を拝見しました。『京都画廊連合会ニュース』で知りました。
 『京都画廊連合会ニュース』は毎月、京都画廊連合会が発行する機関紙で加盟画廊の展覧会日程が詳しく掲載されています。2013年11月号にはスペースを大きく割いて『第15回 丸池’69展』を紹介しています。加盟画廊数が80以上もあり、週単位で展示替えがあることを考えると、月1回発行の『ニュース』にこのように大きく取り上げられるのは大いなる名誉です。その一部を以下に引用させていただきました。ニュースは上質紙にモノクロ印刷ですが、掲載作品箇所をカラーに置き換えています。
 『ニュース』の編集部から作品の写真提供を求められたのが2ヶ月も前だったので作品がまだ完成しておらず写真を送れなかったと残念がる方もいました。
第15回丸池’69展 藤田一郎、殿南直也、高嵜千歳、塩山強、小坂敦子「塩湖」(日本画)、木村順子、神野立生「Traces of Nothingness」(銅版画)、鎌田隆行、奥谷澄、上田彊「作品」(抽象)、池田三郎「鶺鴒」(日本画)-京都画廊連合会ニュースNo.463から

 京都府画学校から続く日本最古の歴史を誇る京都市立美術大学は1969年4月、京都市立音楽短大と統合され、京都市立芸術大学に大学名を変更しました。芸術大学新キャンパス建設は候補地が浮かんでは消える紆余曲折があって停滞し、美術学部の学舎は1980年3月まで元の東山区今熊野日吉町の木造校舎利用が続きました。
 1969年3月、京都市立美術大学日本画科最後の卒業生たちは、その後も集まりを続け、不定期に合同展を開いていたのですが、14年前から東山校舎のシンボルだった丸池の名を冠した『丸池’69展』を定期開催してきました。
 日本画科の同級生たちが44年後も多数集まって合同展を開いているという事実に感動しました。またその結束をうらやましく思います。
 日本画科卒業ですので、当然、日本画の出品が多数ですが、アクリル画や銅版画の出品もあります。木彫も1点ありました。今回、11名の方の作品を見せていただき、その思いを幾らかは感じ取れたと思います。来年はどんな作品を見せていただけるのでしょうか。楽しみに待ちたいと思います。


「ギャラリー吉像堂」は漆器・工芸品の「西村吉像堂」の2階です。階段を上がって左手の展示作品を紹介します。左から奥谷澄『時』『百合』。左奥で1作品が見えませんが、神野立生『Traces of Nothingness』(銅版画)。木村順子『るり渓』『睡蓮』『白雪草』『椿』。小坂敦子『君住む街』『塩湖』。塩山強(作品名の表示なし)。
第15回 丸池’69展(丸池'69展 丸池 '69展 丸池‘69展 丸池 ’69展 丸池’69展)会場に入って左側の展示=Gfllery吉象堂で

右手の展示作品を紹介します。左から上田彊『作品』(アクリル画)。藤田一郎『「気」くさむら』。高嵜千歳『少女と人形たち』『バレエのおけいこ』『ガラスのビンの薔薇』。鎌田隆行『あや「ちち子」とり』『あや「ねネ」とり』『あや「わっ」とり』『あや「ちち」とり』(何れも銅版画)。殿南直也『さねかずら』『飛天』『飛天』『しおん』(壁の影で見えません)。池田三郎『鶺鴒』『争雀』(木彫)。
第15回 丸池’69展(丸池'69展 丸池 '69展 丸池‘69展 丸池 ’69展 丸池’69展)会場に入って右側の展示=Gfllery吉象堂で

 上の2枚の写真でほぼ会場の作品を網羅していますが、曲がり角の奥にあり、まったく写っていない作品や見えにくい展示もありますので以下に写真を追加します。

 左から奥谷澄『百合』。神野立生『Traces of Nothingness』『Traces of Nothingness』(何れも銅版画)。木村順子『るり渓』。
第15回丸池'69展 奥谷澄「百合」、神野立生「Traces of Nothingness」「Traces of Nothingness」、木村順子「るり渓」

 左から木村順子『白雪草』『椿』。小坂敦子『君住む街』『塩湖』。
第15回丸池'69展 木村順子「白雪草」「椿」、小坂敦子「君住む街」「塩湖」

 左から藤田一郎『「気」くさむら』。高嵜千歳『少女と人形たち』『バレエのおけいこ』『ガラスのビンの薔薇』。
 高嵜さんは「未来に希望が持てるような絵を描いて行きたい」と話しておられました。お孫さんがモデルではないかと想像するのですが、描かれた少女の曇りの無い無垢な瞳を見るとその言葉の意味が良く分るような気がします。
第15回丸池'69展 藤田一郎「『気』くさむら」、高嵜千歳「少女と人形たち」「バレエのおけいこ」「ガラスのビンの薔薇」

 左から殿南直也『さねかずら』『飛天』『飛天』『しおん』。池田三郎『鶺鴒』『争雀』。
第15回丸池'69展 殿南直也「さねかずら」「飛天」「飛天」「しおん」、池田三郎「鶺鴒」「争雀」

 池田三郎『争雀』。          三条通りに置かれた「第15回 丸池'69展」看板。
第15回丸池'69展 池田三郎「争雀」        第15回 丸池’69展の案内看板(丸池'69展 丸池 '69展 丸池‘69展 丸池’69展 丸池 ’69展 丸池’69展)
 池田さんの出品作『鶺鴒』は日没後、空に僅かに残照が残る時間帯でしょうか、川面をキセキレイがねぐらへ飛んで行きます。あるいは夜明け前、空が微かに白み出した刻限、キセキレイが餌場へ飛んでいく情景でしょうか。写真では黒一色に見えるかもしれませんが、黒の中に川面も背後の森も実に丁寧に情景が描きこまれているのです。『争雀』は長年のスズメの生態観察を元に生み出された時間の結晶です。2年間掛けて彫り上げた作品は繊細で木彫でここまで出来るのかと驚かされました。

京都美術館に竹内栖鳳展を見に行く2013/11/17 21:16

 「近代日本画の巨人-竹内栖鳳展」を京都市左京区の岡崎公園内にある京都市美術館へ見に行った。
 門柱に「京都美術館」の銘板がはめ込まれている。古の名称がそのまま残されている。京都市美術館は創立80周年を迎え、その記念展覧会が「竹内栖鳳展」だという。
竹内栖鳳展開催中の京都市美術館 門柱には「京都美術館」の表示

 京都市美術館の正面玄関。80年の歴史を感じさせる重厚な造りだ。
開館80周年を迎えた京都市美術館 正面玄関も重厚さと歴史を感じさせる

 竹内栖鳳は幕末の京都に生まれ、13歳で絵を始め、17歳で四条派の幸野楳嶺に入門、四条派のみならず円山派や狩野派の画法も吸収。明治33年、36歳で欧州を7ヶ月旅し、西洋絵画に強い衝撃を受けて日本画の大胆な革新に取り組んでいく。その後名を成す多くの日本画家を育て上げた功績も大きい。明治以降の京都画壇は竹内栖鳳から始まったとも言える巨大な存在。昭和17年没。

 「近代日本画の巨人 竹内栖鳳展」の入場券を買って入る。
近代日本画の巨人 竹内栖鳳展 京都市美術館開館80周年記念
 西洋の旅から帰朝して描いた獅子図は、獅子(ライオン)を初めて動物園で見たため超リアルに、しかも生き生きと描き出されています。西洋画では描けない、日本画の技法を活かしきった、西洋画と従来の日本画を超越した生き物としての獅子(ライオン)を描ききっています。今に安住せず次々と新しい表現に挑戦していった栖鳳の姿がこの展覧会でよく分りました。

 同じ館内の別室で同時開催されている「下絵を読み解く-竹内栖鳳の下絵と素描」の入場券を買って見学しました。
「下絵を読み解く-竹内栖鳳の下絵と素描」入場券 京都市美術館
 こちらは画家の手の内を拝見できる展示です。竹内栖鳳が描いた掛け軸、襖絵、屏風絵には全て同じ大きさの下絵が存在しているのです。日本画に通じていない私には驚きでした。襖絵を描く前に小さい下絵を何度も繰り返し、最後に同じ大きさの襖を使って下絵を描いて最終確認をするのです。すべての作品に下絵が作られたようです。栖鳳の下絵は筆と墨で描かれているのですが、昭和の時代に入ると木炭も併用して描いています。
 作品作りの元になる写生も大量の写生帳の形で残されています。努力の積み重ねが大作を生み出す栄養源になるんですね。写生も筆で描かれていたのが、昭和になると鉛筆も使われています。
 両方の展示を見るのに4時間も使ってしまい、もう閉館時間が迫っていました。

「信楽 阪井 七 作陶展」で器を購入しました(2)2013/10/16 01:09

 阪神梅田本店で開かれた「信楽 阪井 七 作陶展」では、粉引きの取っ手付きカップも購入しました。
 こちらは「この器でコーヒーを飲んだら心地よい時を過ごせそうだなあ」と思わせる穏やかで和める風情を漂わせ手招きしていました。思わずこちらの器も買ってしまいました。

 今まで使ってきたコーヒーカップは上から見ると真円でどこから見てもゆがみも無く工業製品のように整った姿をしています。磁器製のカップの方がコーヒーカップとして使い続けても変色も少なく取り扱いも楽です。
 一方、粉引きの器は陶土で作った土台に白い化粧土をかけて作るそうですが、器に入れる液体を吸い込み汚れが目立つと言います。粉引きの器は汚れが付き易いとの心配で一時逡巡しましたが、形の良さにほれ込み結局購入しました。

 購入後は真っ先に目止めをしました。米のとぎ汁で器を30分ほど沸騰しない程度に煮沸しました。これである程度は汚れの付着は防げるようですが、長期的にはやはり茶色味帯びるようです。でも使い続けてこその陶器ですから、普段使いにして多いに楽しみたいと思います。

阪井七(なお)作陶の取っ手付きカップ 阪井七(なお)作陶の取っ手付きカップ 阪井七(なお)作陶の取っ手付きカップ 阪井七(なお)作陶の取っ手付きカップ  上から見ると器の縁が楕円形です。飲み口を真横から見ると真平らではありません。手で持つと表面に凸凹感があります。粉引きの白い肌に緋色が不規則に自然任せに顔を出しています。こういうところが集まって穏やかで心和む風情をかもし出しているのでしょう。

 阪井七(なお)さんは今回も、会場を訪れる陶器愛好者、或いは阪井七ファンの人たちとの応対で息つく暇も無いほどの忙しさです。その隙間を縫って今回の主要作品と共に写真に入って頂きました。写真左端は案内状を飾っていた「信楽穴窯 破れ壺」です。壺に縦に稲妻型に入った2本の裂け穴は意図して作ったのではなく、穴窯の中で土と炎の相互作用が作り出した、陶芸のもつ不思議な力の証明とも言える作品です。
左端の「信楽穴窯 破れ壺」など主要作品と陶芸家の阪井七(なお)さん=阪神梅田本田で開かれた「信楽 阪井 七 作陶展」で