熊野街道を歩く(谷九からから天王寺駅)2012/07/09 23:51

 熊野街道を前回は、谷町八丁目の近松門左衛門墓所と上本町四丁目の井原西鶴墓所まで歩きました。今回はその続きで、谷町九丁目付近から天王寺駅まで熊野街道ルート近くの歴史遺産も訪ねながら歩きます。
熊野街道(谷八~天王寺駅)ルート図

 井原西鶴墓所から熊野街道に戻ると住所は上汐2丁目(うえしお)です。「熊野街道 八軒家から2.7KM」道標の立つ十字路で東を見るとロシア料理店の看板が見えます。昼時にここを通るとロシア料理店のランチを食べることもあります。地下鉄「谷町九丁目」駅も近くです。
 2.7Km道標から190m南へ歩くと片側5車線と広い千日前通りに出ます。千日前通りの下を近鉄難波線と大阪市営地下鉄千日前線が通っています。
 熊野街道は2.9Km道標の立つ千日前通りを横断し、真っ直ぐビルの間を南へ向かいます。
熊野街道は谷九付近で千日前通りを横断します

 中低層階ビルが立ち並ぶ街並みが続きます。熊野街道沿いに造られた九十九王子の一つ「上野王子」跡との伝承地に寄り道します。生魂小学校を過ぎ、上汐公園の手前で左折して、上町筋を横断し上宮高校を通り過ぎ、「上之宮台ハイツ」を目指します。
 「上之宮台ハイツ」の入口奥に「上之宮」の石碑があります。ここが上野宮=上野王子の跡とされている場所です。私有地に立っていますので道路から拝見するだけにします。熊野街道とされている道から東へ直線で470mも離れている点と上町台地の尾根筋から少し標高が下がる点で王子跡説に疑問も感じます。
上野王子跡と伝わる上之宮跡の石碑が立つ上之宮台ハイツ入り口


熊野街道を歩く(天満からから谷九)2012/07/03 22:57

 京の都から熊野詣でへ向かう熊野街道。京から難波(大阪の古称)へは、淀川を船で下り、今の天満付近で船を降り、大阪の背骨ともいうべき上町台地を南下します。

 古の大阪平野は湿地帯で一面に葦が生い茂っていましたが、標高25m前後の上町台地だけが古代から水の心配が無い高台でした。昔の重要な施設はすべて上町台地上に並んでいます。上町台地の北端に石山本願寺が建てられ、本願寺を滅ぼした秀吉がその跡に大阪城を築城しました。大阪城から南へ神社・仏閣が数珠つなぎに立地します。大仏教施設の四天王寺茶臼山古住吉大社とつながります。
 都人が熊野へ向かう道であった熊野街道は、当然、地形上の合理的な理由から上町台地の一番高いところを通っています。現在の谷町筋です。なお、大阪では南北を筋、東西を通りと称してきました。

 最近、大阪市内の熊野街道を健康のための散歩道として歩いています。天満から天王寺駅まで約5キロ、天王寺駅から住吉大社まで約5キロ、適当な運動量になります。熊野街道沿いには古からの旧跡が数多く残されているのも歩く楽しみを増やしてくれます。では天満橋近くの八軒家船着場跡を出発して上町台地を南へ向かいましょう。
 (地図のルートは大阪府が発表している「歴史街道ウォーキングマップ」に基づいています。熊野街道が本当はどこを通っていたか? 上皇らの浄土信仰に基づく1000年以上前の平安中期、庶民も行列をなして熊野詣に向かったとされる室町以降江戸時代まで、時代によりルートに変動もあったでしょう。本当の熊野街道はどことは今後もいえないでしょう。)
熊野街道(天満~谷九)ルート図

 大川(旧淀川)左岸の八軒家船着場跡が出発点です。背後が天満橋で前方に中之島の東端が見えます。大川は中之島で土佐堀川(左)と堂島川(右)に分けられ、中之島の西端で合流し安治川となり、一部は木津川となり、大阪湾へ注ぎます。(写真は「川の駅はちけんや」の屋上から西向きに撮影)
八軒家船着場跡

 「川の駅はちけんや」正面入口です。地下に下りると、水上バスの待合所やレストランがあります。
川の駅はちけんや

「川の駅はちけんや」の前、川沿いに八軒家の解説版が設置されています。「江戸時代、天神橋と天満橋に挟まれた大川南岸が八軒家と呼ばれた・・・・熊野三山への参詣道である熊野街道の起点でもあり、・・・・」と書かれています。
八軒家の解説

 解説を読んだ後、真南へ向かって進みます。まず土佐堀通りの信号を渡って、右側(西側)の歩道を進みます。大川べりの低地から上町台地に向かうのでいきなりの上り道です。
 歩道には「歴史の散歩道」の印が付けられています。この印をたどって行くと大阪市内の歴史遺産にたどり着きます。大阪市建設局の土木工事共通仕様書には、この印のことを「つたい石」と表記しています。大阪府設定の「熊野街道」と大阪市の「歴史の散歩道」とでは趣旨が異なるので重なるところは一部です。
歩道には「歴史の散歩道」の印「つたい石」が

 土佐堀通りを渡って上り道を130mも進むと、右折するように「つたい石」が導いてくれます。右折して下り道を西へ100mも行くと道路左手に釣鐘屋敷跡が現れます。
 釣鐘の言い伝え。1634年、三代将軍家光が大阪城へ入城するのを出迎え歓迎の意を尽くした町衆の代表たちに将軍は永代に渡る地代免除の恩典を与えた。町衆代表たちは、この恩典を忘れないため釣鐘を鋳造し、2時間おきに一日12回釣鐘をついて時を知らせた。大火を幾度も潜り抜け江戸時代を通じて時を知らせたが、「明治維新」直後の1870年に撤去され1926年以降は大阪府庁屋上に保存されていた。1985年に釣鐘屋敷跡に戻された。
釣鐘屋敷跡と1634年鋳造の時鐘
 鐘楼はコンクリート造の現代建築だが、釣鐘は1634年鋳造の本物。大坂町中時報鐘として大阪府庁屋上に保存されていた。一日3回、8時、12時、日没時、自動制御で撞木(しゅもく)を動かし鐘を鳴らす。木製でないので撞木と言わず打棒と説明版に書かれている。
大坂町中時報鐘

釣鐘屋敷跡
でUターン、本来の熊野街道に戻る。
 中大江公園を右手に見て更に歩みを進める。歴史の散歩道の印に従って道路左側(東側)の歩道を歩く。
 前方に中央大通りと阪神高速の高架が見えてくる。熊野街道は高架下をくぐって直進する。
熊野街道は中央大通りの高架下をくぐって進む

 熊野街道のやさしい解説が書かれたボードが設置されています。大阪市建設局分室の敷地を借りて南大江社会福祉協議会が設置したものです。
子ども向けの熊野街道解説板

 南大江小学校の敷地に食い込む形で太閤下水見学施設が設けられています。豊臣秀吉の町づくりと関連付けられて太閤下水と呼ばれていますが、秀吉との関係ははっきりしません。江戸時代初期に存在したことは確かなようです。江戸時代の下水道が現代も機能しているとは驚くべきことです。大坂(江戸時代の呼称)の都市機能の先進性を物語る一例です。
太閤下水を見学できる設備が設置されている
白い鉄格子にはめ込まれたアクリル板越しに覗くと太閤下水を見ることができます。
城壁同様に石を組んで水路が作られています。今も汚水が流れていました。
今も現役の太閤下水をアクリル板越しに見る

 懐かしい趣のある建物を見るとシャッターを押したくなります。旧字体で「東洋洋傘株式会社」と書いた額を掲げた建物。窓辺の手すりや窓の飾り格子など風情がありますね。
古い建物(東洋洋傘株式会社)

 道路右側に南大江公園が現れます。公園の一番奥、南西隅に赤い鳥居があり、その陰に「朝日神明社跡」の石柱が立っています。坂口王子があった場所との伝承が残ります。熊野街道には旅の道しるべのように九十九(時代によって異なるが多い事の例えで99も無かった)の王子社(おうじのやしろ)が設けられていたそうです。その一つが坂口王子です。
朝日神明社跡の石柱、坂口王子伝承地でもある

 八軒家から1.3キロ地点に設置されていた「熊野かいどう」案内モニュメントです。大阪市が設置したものです。
熊野かいどう案内モニュメント(1.3キロ地点)

 すぐ先で道路は狭くなり少し上り道になります。正面に巨木が見えた地点で熊野街道は左折します。この巨木は榎木大明神としてまつられています。住所は安堂寺町2丁目です。
正面に巨木が見えたら熊野街道は左折します

 せっかくですから少し坂を下って榎木大明神まで進んで見ます。巨木を恐れ敬う気持ちが古からあったのでしょう。巨木の前に小さな社を設け榎木大明神として祀ってきました。ただこの木はエノキではなかったようです。この道を下ると長堀通りです。
巨木をまつった榎木大明神
 榎木大明神の下、木陰にひっそりと直木賞で知られる直木三十五の文学碑が立っています。直木三十五は谷町6丁目付近で若い時代をすごしたようです。
直木三十五文学碑

 榎木大明神の手前で左折して谷町6丁目交差点方向へ向かう。この通りも安堂寺町2丁目です。またまたシャッターを押したくなる古い建物を見つけた。建物の機能性とは無関係に装飾に凝っている。ステンドグラスもはめ込まれている。
古い建物、今は蕎麦屋として使われている
 同じ建物のこちらが全景です。「蕎麦 文目堂」と控えめな表示板が置かれています。
今は蕎麦屋として使われている古い建物

 安堂寺町2丁目を東へ進むと谷町筋に出ます。三井住友銀行の裏側です。ここで広い谷町筋を横断します。(写真は横位置4枚をパノラマ合成)
熊野街道は谷町筋を横断します

 谷町筋を横断すると安堂寺町1丁目です。東へ一筋80m進んで右折、南進します。右折後30mで長堀通りです。信号を渡ります。手前に熊野街道の標柱が立っています。
熊野街道は長堀通りを横断

 谷町6丁目の民家2軒です。繊細なデザインの木製格子。玄関灯のレトロぶり。戦前の建物だと思うのですが。激しい米軍の焼夷弾攻撃があったはずですが焼け残ったのでしょうか。次の機会にお宅を訪ねて聞いて見たいと思います。
古い民家2軒(谷町6丁目)

 信号を渡ってから285m進むとT字路で空堀通り商店街にぶつかります。T字路で左折、15mですぐ右折、一方通行の細い下り道を進みます。
熊野街道(空堀商店街から南へ)

 桃谷湯と書かれていますから銭湯だと思うのですが、中に入っているのは車です。車がなぜ風呂屋に入っているのでしょうか? ここの住所は谷町7丁目です。
銭湯の建物に何故か車が入っている

 T字路から200mで片側1車線の道路に出ます。右を見ますと道路の真ん中に木が立っていて道路が木を避けるように2手に分かれています。やはり神木なんでしょう。たたりを恐れて切れなかったんでしょうね。住所は谷町7丁目と谷町8丁目の間です。
神木を避けて道路が股裂き状態

この道路を楠木通りと呼んでいます。道路の真ん中にクスノキが立っているからでしょうか。楠木通りの左側(南側)歩道には歴史の散歩道の印が続いています。その道をたどると谷町筋を左折して南へ80m行きます。そこに近松門左衛門の墓所がありました。住所は谷町8丁目です。
近松門左衛門墓所への入口

 細い小道を直進し左折すると近松門左衛門の墓石がありました。近世日本文学の巨星たる近松ですら墓石がかろうじて残ったのだなあと思えました。その功績を慕う人々の手で墓所が何とか守られていました。末永く伝えていきたいものです。
近松門左衛門の墓石

 近松門左衛門の墓は谷町筋ですが、直線距離で200mしか離れていない上町筋の浄土宗誓願寺に井原西鶴の墓があります。住所は上本町西4丁目です。近松の墓に詣でたら、ぜひ西鶴の墓も訪ねてください。誓願寺には井原西鶴や浪華の学問所「懐徳堂」についてのパンフレットも用意されています。
井原西鶴の墓がある誓願寺は上町筋に面している
 井原西鶴の墓は誓願寺境内の西奥にありました。よく手入れがされています。
井原西鶴の墓
 誓願寺の入口左手に武田麟太郎の文学碑があるのに気が付いた。扉の陰で寺に入るときは気が付かなかった。武田麟太郎の作品「井原西鶴」の一節が抜き出されている。「誓願寺を出ると、夏祭りを兼ねて遷宮の儀式もあるといふ生玉の方へひとりでに足が向いていた」
武田麟太郎の文学碑

 上町筋の井原西鶴墓所から熊野街道へ戻ります。この付近では、熊野街道は谷町筋から2本東側の車が少ない道路です
熊野街道を歩く(天満から谷九)終わり。次は(谷九から天王寺駅)を歩きます。

「泥の河」文学碑2012/07/02 21:17

 少し前になりますが、偶然、歩いていて、宮本輝著「泥の河」の文学碑に出会いました。
 大阪の中心を流れる大川(旧淀川)が中之島で堂島川と土佐堀川に分けられ、再び合流する地点です。

 中之島の西端に立つ「中之島センタービル」の最上階から西側を見下ろすと堂島川(写真右下)と土佐堀川(左下)が再合流し安治川(右上)と名前を変えて大阪湾に下る状況がよく判ります。木津川(左上)にも分流しています。
 多くの橋が架かっています。左下に高架に隠れていますが湊橋、右下に写真から切れていますが上船津橋、中央左、土佐堀川から木津川への分岐点に昭和橋、中央、土佐堀川から安治川への分岐点に端建蔵橋、右手、堂島川から安治川への分岐点に船津橋が架けられています。
 文学碑そのものは阪神高速の高架下に隠れてみえませんが、碑のそばに建つ大きなクスノキ(左下)が高架より背が高いため、ああ、あそこに「泥の川」文学碑が立っているんだなと判るのです。阪神高速中之島入口から阪神高速神戸線へのループ状高架の下ともいえます。
中之島の西端

 地上に下りて、湊橋南詰めに建つ文学碑の前に立ちます。大きなクスノキが太陽を遮って影を作ります。阪神高速神戸線(右)と阪神高速へ入るための高架道路(左)が頭上を遮っています。「泥の河」は高速道路など存在しなかった時代が舞台です。
文学碑は湊橋の南詰、阪神高速高架下に建つ

 文学碑に書かれています。「目を凝らすと湊橋の下に確かに一艘の舟が繫がれている。だが信雄の目にはそれは橋げたに絡みついた汚物のようにも映った」。
「泥の河」文学碑

 文学碑の脇から、すなわち湊橋の上から下流方向、土佐堀川左岸を見ます。文学の舞台になった場所です。浮き桟橋があり、平底船が何艘も係留されています。写真上に昭和橋が見えます。右上の建物は住友倉庫です。
 コンクリートで美しく冷たく固められた岸辺には文学世界の面影はありません。川だけが流れ続けています。
湊端から昭和橋方向を見る

モスクワぶらぶら歩き(3)2012/02/24 16:53

アルバート通りを東端まで歩き終え、左折して、ブリヴァール環状道路を北へ向かって歩きます。ブリヴァールбульварは並木道の意味で道路の中央分離帯が並木道になっています。
 ブリヴァール環状道路を北上したらすぐ、左手に小庭園が現れました。その庭園の真ん中付近に銅像が立っています。文豪ゴーゴリの記念碑Памятник Гоголюでした。
文豪ゴーゴリの記念碑

 その小庭園への入口付近です。ここから庭に入ると正面にゴーゴリの銅像が、右手にはゴーゴリが暮らし、そして亡くなった大きな邸宅が建っています。この建物は現在、ゴーゴリ記念博物館として使われています。
文豪ゴーゴリの家が残る庭園入口

 ゴーゴリ記念博物館の側面はブリヴァール環状道路に面していて、壁面にゴーゴリを記念するプレートが取り付けられています。プレートにはВ ЭТОМ ДОМЕ с 1848 по 1852 г. ЖИЛ И УМЕР НИКОЛАЙ ВАСИЛЬЕВИЧ ГОГОЛЬ「この家で1848年から1852年まで暮らしそして亡くなったニコライ・ワシリエヴィッチ・ゴーゴリ」と書かれています。住所は二キーツキー・ブリヴァール7Аです。
文豪ゴーゴリが暮らし亡くなった家の壁面

更に歩くと、建物の壁面に記念プレートがまたまた取り付けられていました。
 ソビエト連邦英雄で北極探検艦隊の指揮官だったМихаил Прокофьевич Белоусов ミハイール・プラコーフィエヴィッチ・ベラウーサフが1937年から1946年まで暮らした家の壁面に取り付けられた記念碑です。日本では知られていない人ですが、ソビエト時代には切手にもなっています。
北極探検のベロウソフの記念プレート

 またまた、建物壁面を飾るメモリアル・プレートです。最初のソビエト連邦英雄に選ばれた航空機パイロットで後に空軍大将になったアナトーリー・ワシーリエフ・リビヂェーフスキーが1938年から1983年までここで暮らしていたと書かれています。この人もソビエト時代の切手に描かれています。
最初のソビエト連邦英雄レピヂェーフスキー空軍大将

 日本には、このように建物の外壁に「誰々が何年から何年まで暮らしていた」と書いた記念プレートを見ることはほとんどありません。文豪の足跡を尋ねる文学散歩が好きで東京の文京区などをよく歩きましたが、文豪たちの旧居など一軒も残っていません。この付近に住んでいたということしか分りません。建物が木造で短期間で取り壊され姿を変えてしまうからでしょうか。
 一方、ロシアに限らずヨーロッパ各国の街歩きをすると建物に取り付けられた著名人のメモリアル・プレートを頻繁に見かけます。建物や街並みの保存には、どの国も大変熱心です。戦争で破壊されても元の姿に時間と費用を掛けても戻しています。
 建物が社会のインフラとして幾世代にわたって引き継いでいかれる欧州諸国と建物が使い捨てにされる日本との違いは大きいです。石造と木造の違い、文化の違いと言えばそれまでですが、使い捨ては本当にもったいないことです。

モスクワぶらぶら歩き(2)2012/02/23 11:46

 アルバート通りには帝政ロシア時代、貴族の邸宅が立ち並んでいました。ゴルバチョフ時代、ここを訪れたときも、静かな落ち着いた古風なたたずまいが満ちていました。古書店や骨董商も何軒か存在していて、辞書や百科事典を買ったことがあります。建物自体は昔のままなんでしょうが、中身がまったく入れ替わっています。派手な街に変貌していました。
 伝統的な古書店が姿を消して、路上に古本の屋台が出ていました。
アルバート通りの路上古書店

 昔は無かったと思いますが、アルバート通りに広い場所を使って記念碑が立っていました。
今、ネットで調べたら、1997年に73歳で亡くなったシンガーソングライターの元祖のような方で、Булат Шалвович Окуджаваブラート・シャルヴォヴィッチ・オクジャワさんの記念碑です。詩人で作曲家で自分の曲をギターで弾き語りもしました。「Окуджава」をコピーしてネット検索すると動画サイトに生前の演奏が多数見つかりますよ。
アルバート通りのオクジャワ記念像

 オクジャワ像の横でモデルのような格好でポーズを取る若い女性が現れました。女友達がデジカメを構えています。なぜ記念写真を撮るときに撮り手は少し腰を落とすのでしょうか。ロシア人も日本と同じなんだとおかしくなりました。カメラを顔から放して構える、腰を中途半端に落として構える、どちらもぶれ写真の大いなる要因になるのですが・・。
オクジャワ像の横でカメラにポーズを取る若い女性

 アルバート通り35番の建物壁面に取り付けられた外貨交換レートを電光表示する看板。このときのレートは、USドルの買いが32.20ルーブル(ドルを持ち込んで現地通過のルーブルが欲しい時)、USドルの売りが32.68ルーブル(使い残したルーブルをドルに戻したい時)。ユーロは買いが43.30ルーブル、売りが43.70ルーブル。
 今日2012年2月24日のルーブル円レート(中値)は、1ルーブルが2.71円ですが、2011年10月3日時点では2.35円でした。
両替商の交換レート電光表示看板

 建物の壁面に埋め込まれたクレジットカードでお金を借りる端末です。これも昔は無かったものの一つです。ドルやユーロを持参してルーブルに両替するより、クレジットカードでルーブルを引き出した方がレートが良いと利用する旅行者もいるようです。ただ高金利の借金ですから早く返済しないとかえって高くつきます。どこかで聞いた話だが、人気の少ない街頭に設置されたカードローン端末にカードを入れたがお金が出てこなかった。故障と思ってカードだけ取り出してそのまま帰国したら、後日、見に覚えの無い商品購入代金請求が来た。偽モノ端末機にカード情報を読み取られたようだ。できれば金融機関に設置された端末機を使う方が安心だ。
街頭のクレジットカードローン端末機

 これも昔は決して無かった店舗です。アルバート通りで営業するТАТУ ДРАКОН =刺青(いれずみ)店「ドラゴン」。
アルバート通りの刺青店「ドラゴン」

 アルバート通りを東の端まで歩いていきました。その曲がり角の一等地に大きな店を構える高級レストラン「プラガ」です。黒塗りの外車が次々と横付けされます。主人を下ろした後、車は建物の前の敷地で食事を終えた主が出てくるのを待ちます。旅行者には近寄りがたいレストランです。翻って日本には政財界人が集う料亭という特別な飲食店があり、運転手付きの黒塗り高級車で乗り着けるのが当たり前で、紹介者が無いと相手にされません(近年、政財界の利用が減って様子が変わってきたようです)。
アルバート通り東端の高級レストラン「プラガ」

アルバート通りは25年前とは大きく変わっていました。シックで渋い雰囲気が失われ派手になっています。高級、高価な品揃えの店ばかり増えました。昔から車は通らない歩行者天国でしたが、広い道に飲食系仮設店舗が張り出し、通りの美しさと統一感を損ねています。

アルバート通りを歩き終えたので、マトリョーシカ博物館の方へ向かいます。