ウラジーミルからスーズダリへ ― 2011/11/02 21:50
ポクロヴァ・ナ・ネルリ教会への道中、雨に降られ靴の中までぐじゅぐじゅ状態でホテルに戻った。一晩、靴の中にティッシュを丸めた物を詰めて乾かした。翌朝にはすっかり乾燥していたが、なんと靴底が両足ともはがれかかっている。これではとても歩けない。日本出発の日に初めて下ろした新品の靴なのに。
ホテルの並びに靴屋があったのを思い出して、靴を買いに出かけた。店員とのやり取りを想定して電子辞書を持って店に行った。「私に会うサイズのものを見せてください(Покажите, что-нибудь моего размера.)」というロシア語を電子辞書をクリックして店員に聞いてもらう。わかったわかったと女性店員。靴底のはがれかかった私の靴を脱がしてサイズをチェック。出してくれた靴を履いては大きすぎるとか小さすぎるとか、足に当たって痛いとかジェスチャーを交えてやり取りする。根気良く、何回も試し履きを繰り返す。これではどうかと自信有りげに出してくれたこの靴はまったく痛くない。皮がすごくやわらかいのと、ベルクロテープとジッパーで留める構造のためだろう。ぴったりです(Это как раз на меня)。店内では値段が高目だったが、それでも820ルーブル2200円ぐらいだから私には「安いなあ」と思えた。メイド・イン・チャイナのこの靴のお陰で旅の後半を快適に歩き回ることができた。
ホテルの並びに靴屋があったのを思い出して、靴を買いに出かけた。店員とのやり取りを想定して電子辞書を持って店に行った。「私に会うサイズのものを見せてください(Покажите, что-нибудь моего размера.)」というロシア語を電子辞書をクリックして店員に聞いてもらう。わかったわかったと女性店員。靴底のはがれかかった私の靴を脱がしてサイズをチェック。出してくれた靴を履いては大きすぎるとか小さすぎるとか、足に当たって痛いとかジェスチャーを交えてやり取りする。根気良く、何回も試し履きを繰り返す。これではどうかと自信有りげに出してくれたこの靴はまったく痛くない。皮がすごくやわらかいのと、ベルクロテープとジッパーで留める構造のためだろう。ぴったりです(Это как раз на меня)。店内では値段が高目だったが、それでも820ルーブル2200円ぐらいだから私には「安いなあ」と思えた。メイド・イン・チャイナのこの靴のお陰で旅の後半を快適に歩き回ることができた。
旅行会社から手配してもらった車で、ホテル・ウラジーミルから古都スーズダリを目指して、7号線を北上する。道路は舗装もしっかりしていて車は快適に走る。海外ではいつも車の助手席に乗せてもらう。写真を撮るのに都合が良いからだ。
車はスーズダリの入口と思える場所を通過する。
スーズダリでの宿泊は三ツ星ホテルのソーカル。ウラジーミルより田舎町のためかフロントの女性とはロシア語のみでのやり取りになる。このホテルで初めてヴァウチャーを受け取ってもらえた。もちろんパスポートも渡す。地方に行くほど昔のやり方が残っているようだ。
ホテル・ソーカルは改装工事の真っ最中だった。通された部屋は改装を終えた部屋で、古都スーズダリにふさわしいクラッシクな内装に仕上げていた。
浴室も古都にふさわしい青色を基調としたシックなタイル仕上げになっていた。
荷物を部屋に置いてさっそく町の見学に出かける。ホテルの立地が町の中心タルゴーヴァヤ広場Торговая плошадьに面しているので古都散策にはすごく便利だ。
ロシアの古都スーズダリを歩く(1)世界遺産のクレムリン地区 ― 2011/11/03 22:51
ウラジーミルから北へ30数キロ走って着いた古都スーズダリСуздальは、11世紀ロストフ・スーズダリ公国の首都、12世紀にウラジーミル・スーズダリ公国の首都でもあった。
スーズダリは至る所に、古い教会や修道院が残っている。ただ観光客が見学に行く施設はカーメンカ川とレーニン通りの間の狭い範囲に限られている。
ホテル・ソーカルの玄関を出ると目の前にタルゴーヴァヤ広場Торговая плошадьがあり、私は左へ(西南方向へ)道を取り、クレムリンКремльと呼ばれる土塁に囲まれた教会群へ足を向ける。モスクワのクレムリンが有名だが、防御壁に囲まれた都市や内城のことである。ほとんどスーズダリについて調べてきていないので、どれが歴史的に重要な施設なのか皆目分らず、当てずっぽうに見て行く。)
タルゴーヴァヤ広場の商業アーケード裏手にある古ぼけた教会にカメラを向けた。今、ネットで調べたらВходо-Иерусалимская церковь(別称Церковь Входа Господня в Иерусалим)=右とПятницкая церковь=左という名称の教会である。日本語にすればエルサレムへの入口教会(右)と金曜日教会(左)である。エルサレムへの入口教会は1702年から1707年の創建だそうだ。
スーズダリは至る所に、古い教会や修道院が残っている。ただ観光客が見学に行く施設はカーメンカ川とレーニン通りの間の狭い範囲に限られている。
ホテル・ソーカルの玄関を出ると目の前にタルゴーヴァヤ広場Торговая плошадьがあり、私は左へ(西南方向へ)道を取り、クレムリンКремльと呼ばれる土塁に囲まれた教会群へ足を向ける。モスクワのクレムリンが有名だが、防御壁に囲まれた都市や内城のことである。ほとんどスーズダリについて調べてきていないので、どれが歴史的に重要な施設なのか皆目分らず、当てずっぽうに見て行く。)
タルゴーヴァヤ広場の商業アーケード裏手にある古ぼけた教会にカメラを向けた。今、ネットで調べたらВходо-Иерусалимская церковь(別称Церковь Входа Господня в Иерусалим)=右とПятницкая церковь=左という名称の教会である。日本語にすればエルサレムへの入口教会(右)と金曜日教会(左)である。エルサレムへの入口教会は1702年から1707年の創建だそうだ。
エルサレム教会を後に進むと右手にレンガ色のこの教会が現れる。Успенская церковь(ウスペンスキー教会)またはЦерковь Успения Пресвятой Богородицы(聖母昇天教会)である。
スーズダリで最も古い建物ラジヂェーストヴィンスキー聖堂Рождественский собор(キリスト降誕聖堂)の説明看板に初めてユネスコ世界遺産のマークを見つけた(黄色矢印)。
説明版によると聖堂は1225年に造られた下部と1530年に造られた上部と1750年に屋根に乗せられたたまねぎ型のドームから成る。内部は13-17世紀のフレスコ画で飾られている。この説明によると聖堂の名称はСобор Рожества Богородицы(聖母生誕聖堂)となっている。たぶんこれが正式名称なのだろう。
ラジヂェーストヴィンスキー聖堂(左)と府主教宮殿(右)の間から鐘楼Колокольня рожественского собораを見ている。鐘楼をロシア語でколокольняカラコーリニャ、鐘をколоколコーラカルと表現する。日本人も鐘の音をカランコロンと表現するから同じ様に聞きなしているのが面白い。
上から見ると「く」の字型の府主教宮殿Архиерейские палатыである。北側から南側を見ている。現在は博物館として使われている。左の壁に沿って歩いていくとレストランがある(下の写真)。
府主教宮殿Архиерейские палатыの一部がレストランとしても使われていた。レストランの名前がТРАПЕЗНАЯ(修道院の食堂)。営業時間は休業日を除いて正午から午前0時まで。300年の伝統メニューだとも表示している?
この日はクレムリン内の道路で新婚カップルを何組も見かけた。その多くが祝福する大勢の知り合いに囲まれていた。あいにく小雨が降る中、府主教宮殿の南の外れで、二人だけの時を過ごすカップルの姿も。
「く」の字に曲がった府主教宮殿を南から北へ向かって見ている。府主教宮殿の上にラジヂェーストヴィンスキー聖堂と鐘楼の先端が覗いている。
鐘楼Колокольня рожественского собораである。
ラジヂェーストヴィンスキー聖堂Рождественский соборまたはСобор Рожества Богородицы(聖母生誕聖堂)である。
クレムリン内には観光客狙いと思えるお店もある。右の店はХудожественный салон(美術品ギャラリー)、左の店はペリメニ自慢のロシア料理店とАнтиквариат骨董店兼Народные промыслы民衆の手仕事=民芸品。
結婚式後の二人を祝って知人たちが撒いたコインが歩道に散乱していた。
ロシアの古都スーズダリを歩く(2)世界遺産のクレムリン地区 ― 2011/11/09 19:10
スズダリの世界遺産Кремль(クレムリン)は敵の侵入を防ぐための土塁に囲まれている。その土塁の上を歩きながら目に留まった被写体にカメラを向ける。本当に教会の多い町だ。この教会はЦерковь Иоанна Предтечи(洗礼者ヨハネ教会)である。そばまで寄って名称を確かめていない。いまネット上で調べて書いている。
土塁からの眺めだ。右手が土塁の内側。
上の写真中央にあるのがНикольская церковь(ニコーリスカヤ教会=聖ニコラス教会)で1720年から1739年の創建とか。
クレムリン地区の中心に堂々と建つのがРождественский собор(ラジヂェーストヴェンスキー聖堂)。玉葱型のドーム屋根周辺に足場が組まれているので、修理中のようだ。
ホテルから近いクレムリンの入口近くにある雰囲気のよさそうなバー&レストランПОГРЕБОК。店名は半地下式の居酒屋を意味する言葉だが、店内は平面上にある。珍しく看板に英語も併記されている。外国人観光客にもアピールしているのか。右下の看板にМЕДОВУХАと書かれているが、これがスーズダリ名物の蜂蜜酒のこと。
Торговая плошадь(タルゴーヴァヤ広場)に戻ってきた。ここが町の中心でスーズダリ見学の起点になる場所だ。広場に建っているこの教会はВоскресенская церковь(ヴァスクリシェーンスカヤ・ツェールカフィ=復活教会)。広場には石が敷き詰められている。左手の回廊のある長い建物は、Торговые ряды(商業アーケード)である。今も商店として使われている。
ロシアの古都スーズダリを歩く(3) ― 2011/11/13 16:14
タルゴーヴァヤ広場Торговая плошадьを後にして、レーニン通りул. Ленинаを歩いて北へ向かう。レーニン通りは車道の両側に植えられた並木が黄色く色づき始めている。
まずЛазаревская и Антипьевская Церкови聖ラーザリ・聖アンチープ教会が目に飛び込んでくる。ロシア正教の建築物について知るために参照しているネット上のサイト「НАРОДНЫЙ КАТАЛОГ ПРАВОСЛАВНОЙ АРХИТЕКТУРЫ ://sobory.ru」(正教建築の国民的目録)では、Ансамбль Лазаревской и Антипьевской церквей 建築アンサンブルと表現している。また教会としては非活動状態、建設は1667年から1745年にかけて。
右側の多数の葱坊主型ドームを有する建物単独ではЦерковь Лазаря Четверодневного 無理に訳せば「4日間のラーザリの教会」で1667年の建設。スーズダリ市の案内板の表示では簡単にЛазаревская церковь ラーザリフスカヤ教会とされている。
左側の鐘楼を伴う葱坊主1個の建物はЦерковь Антипы, епископа Пергамского 。こちらも訳せば「アンチープおよびペルガムスキー主教の教会」で1745年の建築。案内板の表記ではАнтипьевская церковь アンチーピエフスカヤ教会とされる。
まずЛазаревская и Антипьевская Церкови聖ラーザリ・聖アンチープ教会が目に飛び込んでくる。ロシア正教の建築物について知るために参照しているネット上のサイト「НАРОДНЫЙ КАТАЛОГ ПРАВОСЛАВНОЙ АРХИТЕКТУРЫ ://sobory.ru」(正教建築の国民的目録)では、Ансамбль Лазаревской и Антипьевской церквей 建築アンサンブルと表現している。また教会としては非活動状態、建設は1667年から1745年にかけて。
右側の多数の葱坊主型ドームを有する建物単独ではЦерковь Лазаря Четверодневного 無理に訳せば「4日間のラーザリの教会」で1667年の建設。スーズダリ市の案内板の表示では簡単にЛазаревская церковь ラーザリフスカヤ教会とされている。
左側の鐘楼を伴う葱坊主1個の建物はЦерковь Антипы, епископа Пергамского 。こちらも訳せば「アンチープおよびペルガムスキー主教の教会」で1745年の建築。案内板の表記ではАнтипьевская церковь アンチーピエフスカヤ教会とされる。
更にレーニン通りを北へ歩いていく。目を引くしゃれたカフェを見つけた。店の名は「ХАРЧЕВНЯ(ハルチエーヴニャ)」今は廃れた昔のロシア語で「旅籠、一膳飯屋、安宿」を意味する言葉」。廃語を使ってロシア人の郷愁を誘っているのだろう。
夕方、お茶にしようと再度戻ったら満席だった。残念!もうすでに食事時で客たちは料理をほおばっていた。
いま、ブログ記事をまとめながら「地球の歩き方ロシア‘10~‘11」を見たらスーズダリ唯一のレストラン紹介にこの店を取り上げていた。「雰囲気の良い小さなカフェ。ロシア料理が専門で、スープや肉料理、魚料理などの料理が安くておいしい。」とのコメント。
午後3時半、前方から学校帰りの子どもたちが歩いてくる。連写した中の1コマ。背中の通学かばんは、ロシアでもランドセルと呼ぶらしい(普通、背負いかばんはранецだが)。ロシアの学校は11年制なので小学生という言い方はできないが、このこどもたちは11年制学校の初等科クラスだろう。
更に北へ歩いてリザパラジェーンスキー修道院 Ризоположенский монастырьの南口が見えてきた。この三角帽子の塔が二つくっついた門が「聖なる門 Святые ворота」と呼ばれる。右側のピンクの建物は無名の小礼拝堂である。
正式にはРизоположенский женский монастырьリザパラジェーンスキー女子修道院というらしい。
修道院内に入る。この赤レンガ積みの建物は19世紀に僧房棟として建てられた。今、民間企業が借り受けてホテルとカフェとして活用している。
いま、「地球の歩き方ロシア‘10~‘11」を見ていて、スーズダリのホテル紹介の中にリザパラジェーンスカヤ・ホテルとして取り上げられているのに気づいた。「リザパラジェーンスキー修道院の敷地内にあるホテル。修道院付属の古い建物だが、内部は改装されている。」とコメントされている。
トイレを借りたくてリザパラジェーンスカエ・カフェРизозоложенское кафеに入る。5度前後の外気温に冷やされていたカメラを急に暖かい室内に持ち込んだのでレンズが一気に曇ってしまった。注文したコーヒーを撮影すると霧がかかったような写真になった。砂糖をたっぷり入れるのがロシア風である。кофеを注文すると、店の女性にчёрный?(黒いの?)と聞かれる。ブラックか?と聞いている。да(ええ)と答えるとミルク無しで出てくる。
テーブル横の窓の外、庭越しに白いリザパラジェーンスキー聖堂が建っている。この白い窓枠も中々おしゃれだ。花活け(生け花?)が白い窓枠を引き立てている。
修道院内の鐘楼Колокольняである。ナポレオン戦争勝利を記念して1813年~1819年にかけて建てられた。スーズダリで最も高い72mの高さを誇る。こちらも足場が組まれて修復工事中のようだ。
リザパラジェーンスキー修道院内の聖堂である。Собор Положения риз Божьей Материが正式名称らしいが辞書を引いても訳すのが難しい。Божая Матьは神の母=生神女(聖母マリア)で、ризはризаの複数生格で、聖職者の法衣または一般に衣服の意味。生神女の衣の所在する聖堂といったところだろうか。1560年の建築であり、修道院内で一番古い建物である。
修道院は赤レンガの塀で囲まれているが出入り口にはこのように小塔を上にかぶせるように建てている。モスクワの大クレムリンの城壁にも要所要所に塔が建っている。日本の城にも城壁の各所に櫓(やぐら)が設けられている。いずれも設計思想は共通なのだろう。
修道院内を南北に貫通する通路。南の端に「聖なる門」が見え、左手に72mの鐘楼がそびえている。
リザパラジェーンスキー修道院の北口が見えてきた。土地が耕され野菜が植えられている。修道院の人たちが栽培しているのだろうか。北口から外へ出て、更に北へ向かう。
ロシアの古都スーズダリを歩く(4) ― 2011/11/14 20:30
若夫婦が幼子を連れて歩いてくる。ゆっくりと歩いている。散歩だろうか。一時の破滅的経済状態を脱してロシア国内もすっかり落ち着きを取り戻したように思える。地方都市の様子を垣間見ても人々は普通の暮らしを取り戻したようだ。
ロシアは、エリツィンの破壊と無秩序の時代を乗り越えて、プーチンの秩序と安定の時代に入った。人々がプーチンに高い支持を寄せる理由が分るような気がする。
ロシアは、エリツィンの破壊と無秩序の時代を乗り越えて、プーチンの秩序と安定の時代に入った。人々がプーチンに高い支持を寄せる理由が分るような気がする。
ロシアの民家は板張りの外装ばかり見てきたが、これは本格的なログハウスだ。日本でログハウスを作る人は自然志向が強いから、素材のままか透明ラッカー仕上げだろう。青い塗装を施すのがいかにもロシア風。住所がул. Ленина 99。
こちらの家は窓枠に見事な木彫が施されている。住所はул. Ленина 107。
レーニン通りの道路東側沿いに建つЦерковь Смоленской иконы Божией Материスモレンスカヤ聖母のイコン教会。1696年から1706年に建てられた。現在も活動中の生きている教会。
上のスモレンスカヤ教会と並んで建っているのがПосадсктй домパサードの家。17世紀末建築の石造民家。木造から石造へ変化する境目の建物。
ロシアの古都スーズダリを歩く(5) ― 2011/11/16 20:46
町の北端までやって来た。そこに高い城壁のような塀をめぐらしたスパソ・エフフィミエフ修道院(Спасо-Евфимиевский монастырьスパサ・エフフィーミエフスキー・マナストゥィーリ)が巨大な姿を現した。スパソ・エフフィミエフ修道院は、世界遺産に指定されている。
1352年に創建されたが、17世紀にリトアニア・ポーランド連合軍に破壊された後、堅固な城壁のような塀で防備を固める修道院になった。塀の高さは8m、その長さは1.5km、12の塔屋を備える。
スパソ・エフフィミエフ修道院の南側の塀である。レンガを積み上げて、表面を漆喰で塗り固めたように思えるのだが、その漆喰にベンガラでも混ぜて赤い色を出したのだろうか?
1352年に創建されたが、17世紀にリトアニア・ポーランド連合軍に破壊された後、堅固な城壁のような塀で防備を固める修道院になった。塀の高さは8m、その長さは1.5km、12の塔屋を備える。
スパソ・エフフィミエフ修道院の南側の塀である。レンガを積み上げて、表面を漆喰で塗り固めたように思えるのだが、その漆喰にベンガラでも混ぜて赤い色を出したのだろうか?
南側の壁に沿って西へ歩いていくと川が出現する。Каменка река(カーメンカ川)である。川の向こうに大きな修道院が見える。
スパソ・エフフィミエフ修道院の西側の塀に沿って北へ向かって歩いていく。この壮大な壁は明らかに外敵に備えた構造になっている。
スパソ・エフフィミエフ修道院の北端に達した。修道院の壁と民家の間の空き地にヤギがつながれていた。民家の人が飼っているのだろう。ヤギの乳を利用するために飼っているのだろうとその場では思ったが今見るとオスのようだ。繁殖用?愛玩用?肉用?カシミヤ用?
ロシアの秋には、рябина リャビーナ(ナナカマドの一種)の赤い実が似合う。今回の旅でもリャビーナの赤い実を各所でよく見かけた。
よく知られたロシア民謡にЧто стоишь качаясь тонкая рябина シトー・ストーイシ・カチャーヤシ・トーンカヤ・リャビーナがある。直訳すると「どうしてお前は揺れながら立っているのか?細いナナカマドよ」となるが、日本では「小さいぐみの木」として知られる。
またУральская рябинушкаウラーリスカヤ・リャビヌーシカ、日本で「ウラルのぐみの木」として知られる曲も有名だ。
リャビーナはロシア人にとって大変親しみのある樹木なのだ。
スパソ・エフフィミエフ修道院の北側の「城壁」である。
北側の壁に沿って東へ向かって歩く。「城壁」の各所に設けられた塔には銃眼のような穴が見られる。戦いに備えたものだろうか。
北側の「城壁」と向かい合って民家が続く。ニワトリを飼っている。先ほどのヤギといい、生活の足しにするためだろう。
民家の板壁がエメラルドグリーンに塗られている。その前に黄色く色づいたカエデ系の樹木が立っている。対比が美しい。花壇も造られて手入れが行き届いている。
広大なスパソ・エフフィミエフ修道院の周囲を1周して正門前に戻ってきた。正門の大きく高い塔屋の前に小公園があり、中を覗くと記念碑が立っていた。碑文は「ドミートリー・ポジャールスキーへ感謝を込めて」。胸像の台座の両脇から修道院のイコンが望めるように記念碑は設計された-と判断したのだが。
1600年代初頭、ロシアは皇帝の跡継ぎも途絶え、大飢饉が続き3分の1の民が死亡するような惨状で、国力は地に落ち国家機能も失っていた。弱体化したロシアにカトリックのポーランド・リトアニア連合とプロテスタントのスウェーデンが襲い掛かり好きなように蹂躙されていた。モスクワをポーランドから取り返すために立ち上がったニージニー・ノヴゴロドの肉屋クジマ・ミーニンが組織した第二次国民軍の司令官に迎えられた最貧下級貴族出身のドミートリー・ポジャールスキーДмитрий Пожарскийは1611年11月、モスクワをポーランドから取り戻した。
ドミートリー・ポジャールスキーは、ここスパソ・エフフィミエフ修道院に埋葬されている。
スパソ・エフフィミエフ修道院の回りを一周したが、まだ内部の見学はしていない。しかし時刻はすでに午後5時半になったので、明日出直すことにして、レーニン通りを南下してホテルへ向かう。
ул. Ленина 123 (レーニン通り123)の建物が渋い状態に古色を帯びていたのでパチリ。
レーニン通りに立っていた掲示板。張られていたチラシを読むと、不動産情報、靴の閉店セール、試験対策の外国語学習塾など。
レーニン通りを挟んで反対側(東側)の公園では、一部の樹木が色づき始めていた。ロシアでは(モスクワ周辺では)10月に入ると急速に木々が色づいてくる。明日は10月1日だ。
ロシアの古都スーズダリを歩く(6)祭りと出会う ― 2011/11/21 23:56
今日から10月。ホテルの玄関を出ると、目の前のタルゴーヴァヤ広場が祭り会場に姿を変えていた。広場には沢山の屋台が並んでいる。肉、野菜、パン、果物、蜂蜜、ピクルス、ピロシキ、蜂蜜酒などの食料品のほか、花、民芸品、工芸品などの露店も並んでいる。
特設舞台も造られ、壇上では民族衣装の婦人たちが民謡を歌っている。舞台の前に並べられたベンチに聴衆が誰も居ないが、婦人たちは関係なく次々とレパートリーを歌い続ける。
特設舞台も造られ、壇上では民族衣装の婦人たちが民謡を歌っている。舞台の前に並べられたベンチに聴衆が誰も居ないが、婦人たちは関係なく次々とレパートリーを歌い続ける。
このグループは民族楽器を演奏していた。左端のバラライカのように日本でも知られた楽器もあるが、アコーディオン以外の楽器名は分らない。
大きな縫いぐるみはロシアの農夫と農婦とその娘といったところだろうか。子どもといっしょに記念写真に応じていた。
一般の婦人たちも、家庭菜園で採れたような野菜や手作りのパンや木の実などをテーブルに並べていた。お茶を飲みながら祭りを楽しんでいるようだ。
あでやかな民族衣装で正装した婦人たちのグループ。古都スーズダリのタルゴーヴァヤ広場が100年以上昔へタイムスリップしたかのようだ。
野菜や果物を盛り付けた大きな盆が展示されていた。ウリやカボチャなどの野菜に施された彫刻が見事だ。この飾りつけや屋台のほとんどが食料品なのを見ていると、このお祭りは秋の豊作を祝う(豊作に感謝する)収穫祭なのかと思えてきた。
手作りのパッチワークを展示しているお店。スーズダリを描いた大きなパッチワーク。カーメンカ川と数多くの修道院がスーズダリの特徴をずばり表現している大作だ。
机一つ置いて蜂蜜を売っているおじさんがいた。ロシアで蜂蜜を買いたいと思っていたので覗き込むと試食を勧められた。特定の花から集めた高級蜂蜜ではないが、普通に美味しいので一番小さな容器を一つ買った(左)。100ルーブル(11月のレートでは230円程度)だった。帰国後、重さを計ると380gあった。ラベルには「スーズダリ地区の個人養蜂場、花由来の本物の蜂蜜、養蜂家アレクサンドル・ミハイロビッチ・ノスコフ出荷」と書かれている。
別のおばさんの露店で蜂の巣入り蜂蜜を買った(右)。こちらは200ルーブルだった。蜂の巣入りが高いのは知っていたのでお手ごろ価格と思った。
その後、蜂蜜売りのおじさんの近くを通る度に、おじさんが愛想笑いをする。ロシア人が愛想笑いをするなんて極めて珍しいのでこちらも笑顔で手を振る。
おっ、これは何だ。無数の鳥が広場の上空を埋め尽くした。大部分はドバトらしいがカラスも混じっているようだ。何が原因で一斉に飛んでいるのか?分らない。
広場に詳しいスーズダリの観光案内図を描いたボードが立っていた。ロシア語のみの案内図なのでロシア語圏からの観光客だけが対象なのだろう。
タルゴーヴァヤ広場は昔のロシアを描いた映画の撮影に使われています。ホテル・ソーカルのホームページを開いて知りました。«Женитьба Бальзаминова»(バリザミノフの結婚)という映画の最後の場面です。19世紀や18世紀を描いた映画撮影に便利な場所なんですね。
ロシアの古都スーズダリを歩く(7)スパソ・エフフィミエフ修道院内部を見学 ― 2011/11/25 17:05
昨日はスパソ・エフフィミエフ修道院の外周をぐるっと回った段階で夕刻になり、内部の見学を果たさないままホテルに戻った。今日1日は修道院の「城壁内」を見学に行く。
タルゴーヴァヤ広場のお祭り見物で午前中を使ってしまった。急いでレーニン通りを北へ歩く。素敵な民家を見つけるとまた撮影。家屋番号87のこの建物はДом купца Бибанова(古の商人ビバノフの住居)である。石造りの一階の上に木造の二階を載せている。この構造の古い民家がいくつか現存する。
タルゴーヴァヤ広場のお祭り見物で午前中を使ってしまった。急いでレーニン通りを北へ歩く。素敵な民家を見つけるとまた撮影。家屋番号87のこの建物はДом купца Бибанова(古の商人ビバノフの住居)である。石造りの一階の上に木造の二階を載せている。この構造の古い民家がいくつか現存する。
民家でも昔の豪商の家となると窓枠の木彫飾りも緻密で凝った作りだ。://suzdal.org.ru/Arhitect/dom_bibanova.htmによると農産物を商っていたビバノフのこの住居は、19世紀はじめに建築された。建築後200年ほど経っていることになる。
モダーンなデザインに写欲を刺激されて撮影。建築史的には値打ちが無いのか、。://suzdal.org.ru/Arhitect/suzdal_grajdanka.htmには載っていない。色使いが良い。薄いコバルトブルーに白い窓枠が素敵だ。
スパソ・エフフィミエフ修道院の入口に着いた。修道院は昨日見たように周囲を高い城壁で囲まれ塀の要所に塔が12個建っている。その中で最大の塔がこの正面入口である。
塔の下のゲートにВЫХОД(入口)があり、扉を開けて入ったところで見学券を購入する。
すべての展示館を見学するための料金は300ルーブル(下の切符)。スーズダリの全展示撮影券が100ルーブル(上の切符)だった。併せて400ルーブル支払う。
ウラジーミルとスーズダリで古寺院や旧跡を見学してきたが、この時まで外観を見るだけで内部に入らなかったので見学切符を初めて購入した。
ゲートを抜けたところに2軒のカフェと別にトイレ棟があった。ТУАЛЕТ WCとロシア語に英語が併記されていた。ロシアで英語の表記は珍しい。欧米人の見学者が多いのだろう。男性がМ、女性がЖと表示されていることが多いのだが、ここは紳士と淑女の絵が描かれている。
ゲートを抜けたところに立っていた案内看板。修道院内施設の場所と名前が詳しく示されている。これと同じ内容のチラシかリーフレットが置いてあれば助かるのだが無い。カメラの3インチ液晶で見るのでは小さすぎる。10インチのタブレットPCで撮影すればチラシ代わりになりそうだが、リュックから取り出すのが面倒でやらなかった。
すぐに第2ゲートと言うべき建物が現れる。上の案内図の②に相当するНадвратная Благовещенская церковь (門の上の聖母教会)である。教会の下のトンネルを抜けて修道院の本丸に入る。
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