「ボストン美術館 日本の至宝」展を大阪市立美術館で鑑賞 ― 2013/04/13 00:04
昨年(2012年)春の東京を皮切りに名古屋、福岡で順次開かれてきた「ボストン美術館 日本の至宝」展が、この4月2日から大阪市天王寺区の大阪市立美術館で始まりました。
図録を買ってきました。これだけ充実した内容で二千円は安いです。繰り返し鑑賞したい私には入場料千五百円はちょっと高いです。名古屋・福岡・大阪の3会場共通の図録とされていますので、東京展で発売された図録は内容が異なるのでしょう。会場毎に展示内容も異なります。展示作品の数は東京>大阪>名古屋>福岡の順に少なくなっています。東京展のみ刀剣と染色作品が加わる。また仏教彫刻作品は東京と大阪会場のみの展示となっている。展示作品数の違いはどんな理由からなんでしょうか?
図録を買ってきました。これだけ充実した内容で二千円は安いです。繰り返し鑑賞したい私には入場料千五百円はちょっと高いです。名古屋・福岡・大阪の3会場共通の図録とされていますので、東京展で発売された図録は内容が異なるのでしょう。会場毎に展示内容も異なります。展示作品の数は東京>大阪>名古屋>福岡の順に少なくなっています。東京展のみ刀剣と染色作品が加わる。また仏教彫刻作品は東京と大阪会場のみの展示となっている。展示作品数の違いはどんな理由からなんでしょうか?
1876年(明治9年)開館したボストン美術館の収蔵作品数は45万点で、その内、日本の作品が10万点を占めるそうで、日本国外の美術館・博物館では突出した日本美術コレクションと言えます。今回の展示作品を見て分るように、国内に留まっておれば間違いなく国宝指定と思われる作品も多数所有し質の面でも充実しています。
これほど充実したコレクションがボストンに集まった原動力は、ボストン出身のモース、フェノロサ、ビゲローの三人とフェノロサの教え子だった岡倉天心の努力に尽きます。
まず、ボストンの動物学者モースが腕足類の研究のため明治10年に来日し、東京大学の依頼で進化論の講義を行い、日本と縁ができます。モースは在日中、大森貝塚を発見したことでも知られています。モースは滞日中に消えゆく日本の民族資料や全国の窯元を回って陶磁器を系統的に集めています。これらもボストン美術館に寄贈されています。
そのモースの推薦で、ハーバード大学を出たばかりのフェノロサが明治11年、東京大学に哲学教授として迎えられます。フェノロサは来日前にボストン美術館付属美術学校で絵画を学んでおり、美術についての素養もありました。フェノロサは来日後、まもなく日本の美術作品、特に狩野派をはじめとする絵画の魅力にのめり込んで行きます。
一方、モースはボストンへ帰郷すると日本文化を紹介する講座を開いて、日本文化の魅力を市民たちに伝えた。それを聴講した市民の一人がビゲローである。大富豪の息子で外科医のビゲローはモースの話から日本熱に取り付かれ日本へ急遽飛び出した。すでに日本刀のコレクターだったが、日本でフェノロサと出会い、日本絵画の収集を強く勧められる。フェノロサの日本美術に対する鑑識眼とビゲローの財力が結びつきコレクションは急速に膨らんでいく。
フェノロサとビゲローの日本美術収集が短期間に順調に進められたのは当時の日本の特別な状況があった。江戸時代、美術界の守護役であり、収集家でもあったのは大名家と大寺院であった。徳川幕府が倒され誕生した維新政府にとって天皇を政治・軍事・宗教・社会規範・教育の頂点に据える絶対天皇制の確立が急務であり、その裏づけとなる産業振興・軍備増強を重点に政策を進め、アジア的・日本的文化は後進国の象徴として切り捨てる姿勢であった。
日本美術の守護者だった大名家は地域支配者の地位を失い経済的にも没落し、何代にも渡って集められた珠玉の美術品が流出した。また仏教寺院は維新政府の渡来宗教である仏教を排除し天皇を頂点とする神道を国の宗教に据える廃仏毀釈政策で大打撃を受けていた。仏教寺院が古来守ってきた仏像・仏画が打ち捨てられる事態まで起こった。
フェノロサ、ビゲローが日本に来た明治十年代は、日本古来の美術品が二束三文で放り出された時代だった。二人がどのように収集を進めたか余り記録は残っていないが、最高の目利きだったフェノロサと財力を持ったビゲローの二人三脚でコレクションは順調に拡大した。ただ、大阪・北浜の古美術商・山中吉郎兵衛とフェノロサの強い結びつきは記録に残っている。
徳川家の御用絵師だった狩野家の画家たちの零落はひどいものがあった。暮らしにも困っていた狩野芳崖に手を差し伸べたのはフェノロサだった。明治十五年に狩野芳崖を見出し、明治十六年からフェノロサのために絵を描く絵師として雇い入れた。「ボストン美術館 日本の至宝」展の入口に飾られていたのが、この狩野芳崖「江流百里図」である。この展覧会で一番衝撃を受けた作品である。プロ絵師の腕はすごいなあ!と感嘆した。これだけの描線を描ける画家がどれだけいるだろうと思わずにはいられない。とにかく技量がすごい。そして、この絵のすごさは実物を間近に見ないと分らないだろう。図録では伝わってこない。
そのモースの推薦で、ハーバード大学を出たばかりのフェノロサが明治11年、東京大学に哲学教授として迎えられます。フェノロサは来日前にボストン美術館付属美術学校で絵画を学んでおり、美術についての素養もありました。フェノロサは来日後、まもなく日本の美術作品、特に狩野派をはじめとする絵画の魅力にのめり込んで行きます。
一方、モースはボストンへ帰郷すると日本文化を紹介する講座を開いて、日本文化の魅力を市民たちに伝えた。それを聴講した市民の一人がビゲローである。大富豪の息子で外科医のビゲローはモースの話から日本熱に取り付かれ日本へ急遽飛び出した。すでに日本刀のコレクターだったが、日本でフェノロサと出会い、日本絵画の収集を強く勧められる。フェノロサの日本美術に対する鑑識眼とビゲローの財力が結びつきコレクションは急速に膨らんでいく。
フェノロサとビゲローの日本美術収集が短期間に順調に進められたのは当時の日本の特別な状況があった。江戸時代、美術界の守護役であり、収集家でもあったのは大名家と大寺院であった。徳川幕府が倒され誕生した維新政府にとって天皇を政治・軍事・宗教・社会規範・教育の頂点に据える絶対天皇制の確立が急務であり、その裏づけとなる産業振興・軍備増強を重点に政策を進め、アジア的・日本的文化は後進国の象徴として切り捨てる姿勢であった。
日本美術の守護者だった大名家は地域支配者の地位を失い経済的にも没落し、何代にも渡って集められた珠玉の美術品が流出した。また仏教寺院は維新政府の渡来宗教である仏教を排除し天皇を頂点とする神道を国の宗教に据える廃仏毀釈政策で大打撃を受けていた。仏教寺院が古来守ってきた仏像・仏画が打ち捨てられる事態まで起こった。
フェノロサ、ビゲローが日本に来た明治十年代は、日本古来の美術品が二束三文で放り出された時代だった。二人がどのように収集を進めたか余り記録は残っていないが、最高の目利きだったフェノロサと財力を持ったビゲローの二人三脚でコレクションは順調に拡大した。ただ、大阪・北浜の古美術商・山中吉郎兵衛とフェノロサの強い結びつきは記録に残っている。
徳川家の御用絵師だった狩野家の画家たちの零落はひどいものがあった。暮らしにも困っていた狩野芳崖に手を差し伸べたのはフェノロサだった。明治十五年に狩野芳崖を見出し、明治十六年からフェノロサのために絵を描く絵師として雇い入れた。「ボストン美術館 日本の至宝」展の入口に飾られていたのが、この狩野芳崖「江流百里図」である。この展覧会で一番衝撃を受けた作品である。プロ絵師の腕はすごいなあ!と感嘆した。これだけの描線を描ける画家がどれだけいるだろうと思わずにはいられない。とにかく技量がすごい。そして、この絵のすごさは実物を間近に見ないと分らないだろう。図録では伝わってこない。
ボストン美術館の日本作品群はフェノロサが個人的スキャンダルで美術館を去った後、明治37年、ビゲローにボストンへ招かれたフェノロサの教え子・岡倉天心がコレクションの充実に尽力することになる。
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