9電力会社独占体制はいかにして生れたか-白洲次郎との関係 ― 2011/05/05 10:16
明治時代各地に発生した火力による電燈会社、その後、水力発電所を作った各地の発電・送電会社などが群雄割拠、離合集散、買収合戦と激しい戦いを繰り広げ、大正末期1920年代半ばには、発電と送電は五大電力会社に集約化が進んだ。末端の配電会社は470社ほどが存在した。
ところが、戦争遂行を進める軍部が政権を奪い軍事独裁体制ができあがると、電力事業も全て戦争遂行に奉仕すべきとして、発電、送電、配電を集約する命令が出された。1938年から39年には、すべての発電設備、送電設備は接収され、発電・送電は実質国家管理の日本発送電株式会社にまとめられた。配電は全国無数の配電会社を9社に集約した。
そして1945年、日本の敗戦。その後も戦争中の日本発送電株式会社(日発)と9配電会社体制は存続していたが、日本の民主化のために独占企業の分割が必要と考えていた占領軍司令部から、電力事業についても分割するよう指示が出た。
下山国鉄総裁が東京都足立区の常磐線で轢死体で発見された「下山事件」。戦後最大の不可解事件として知られるこの事件を扱った「下山事件 最後の証言(柴田哲孝著)」から、地域独占の9電力会社誕生にかかわる部分を引用させていただく。(引用文中、横書きのため漢数字は洋数字に変更している)
『さらに田中清玄と水野成夫の二人には、決定的な共通点がある。キーワードは吉田茂の側近“白洲次郎”だ。 下山事件から4ヵ月後の昭和24年11月24日、後の日本の電力事業を左右する第1回「電気事業再編成審議会」が開催された。この審議会の実権を握っていたのが終戦連絡事務局次長だった白洲次郎である。白洲は会長の松永安左衛門(名古屋の東邦電力創設者)をはじめ、四人の審議会委員の選出を担当した。その委員の一人として白洲が推薦したのが、国策パルプ副社長の水野成夫だった-。
一方、審議会の設置により、「日発」を解体。それまでの電力会社九社が民営化される再編成令が昭和25年11月に公布された。その中で、特に東北電力のダム建設において巨額の利権を得たのが田中清玄の神中組である-。
下山事件に関連し、「ヤンセンという殺し屋を見た」と証言した田中と水野の二人が、同じように白洲を通じその後電力業界から利益と恩恵を受けたことははたして偶然だろうか。もちろん「電気事業再編成審議会」の実権を握っていたのは当時の首相、吉田茂である。ちなみに白洲次郎は、再編成の人事で昭和26年5月に東北電力の会長という地位についている。』
戦争遂行のために集約化された電気事業が、戦後の民営化の過程でも独占体制が続き、一部の闇の紳士たちの暗躍の舞台となった。元をたどれば、発電、送電、配電は別々の事業としてなりたっていた。今後の東電をどうするかを考えるに当たって、発電、送電、配電を分離し、発電、送電設備の売却で数兆円の賠償金は十分に生み出せる。他の地域独占電力会社についても発・送・配の分離と電力自由化に踏み出す機会だ。
日本の電気代は高い。原発PR費、立地促進費からあらゆるものを含めて経費を出し、それに十分な利益を乗せて、電気料金を決める仕組みを歴代自民党政権と通産官僚たちが保証してきたから電力会社ほど楽な商売は無かった。幹部社員たちも楽な商いにどっぷり漬かってきたから、事故後の記者会見でも緊張感がまるでない対応ぶりで、本人たちは未だに気づいていない。
最後に、現在社会のありようを決定した戦後の力学が、一般国民がまったく見るも聞くもできなかった裏で蠢く勢力によって決定付けられたという事実を、ある断面から鋭利に切り取って見せた「下山事件 最後の証言(柴田哲孝著)」の一読をぜひお勧めいたします。
念のためですが、1972年まで米軍占領下にあった沖縄で54年に米国の出資でつくられた沖縄電力は9電力に含まれていません。
ところが、戦争遂行を進める軍部が政権を奪い軍事独裁体制ができあがると、電力事業も全て戦争遂行に奉仕すべきとして、発電、送電、配電を集約する命令が出された。1938年から39年には、すべての発電設備、送電設備は接収され、発電・送電は実質国家管理の
そして1945年、日本の敗戦。その後も戦争中の日本発送電株式会社(日発)と9配電会社体制は存続していたが、日本の民主化のために独占企業の分割が必要と考えていた占領軍司令部から、電力事業についても分割するよう指示が出た。
下山国鉄総裁が東京都足立区の常磐線で轢死体で発見された「下山事件」。戦後最大の不可解事件として知られるこの事件を扱った「下山事件 最後の証言(柴田哲孝著)」から、地域独占の9電力会社誕生にかかわる部分を引用させていただく。(引用文中、横書きのため漢数字は洋数字に変更している)
『さらに田中清玄と水野成夫の二人には、決定的な共通点がある。キーワードは吉田茂の側近“白洲次郎”だ。 下山事件から4ヵ月後の昭和24年11月24日、後の日本の電力事業を左右する第1回「電気事業再編成審議会」が開催された。この審議会の実権を握っていたのが終戦連絡事務局次長だった白洲次郎である。白洲は会長の松永安左衛門(名古屋の東邦電力創設者)をはじめ、四人の審議会委員の選出を担当した。その委員の一人として白洲が推薦したのが、国策パルプ副社長の水野成夫だった-。
一方、審議会の設置により、「日発」を解体。それまでの電力会社九社が民営化される再編成令が昭和25年11月に公布された。その中で、特に東北電力のダム建設において巨額の利権を得たのが田中清玄の神中組である-。
下山事件に関連し、「ヤンセンという殺し屋を見た」と証言した田中と水野の二人が、同じように白洲を通じその後電力業界から利益と恩恵を受けたことははたして偶然だろうか。もちろん「電気事業再編成審議会」の実権を握っていたのは当時の首相、吉田茂である。ちなみに白洲次郎は、再編成の人事で昭和26年5月に東北電力の会長という地位についている。』
戦争遂行のために集約化された電気事業が、戦後の民営化の過程でも独占体制が続き、一部の闇の紳士たちの暗躍の舞台となった。元をたどれば、発電、送電、配電は別々の事業としてなりたっていた。今後の東電をどうするかを考えるに当たって、発電、送電、配電を分離し、発電、送電設備の売却で数兆円の賠償金は十分に生み出せる。他の地域独占電力会社についても発・送・配の分離と電力自由化に踏み出す機会だ。
日本の電気代は高い。原発PR費、立地促進費からあらゆるものを含めて経費を出し、それに十分な利益を乗せて、電気料金を決める仕組みを歴代自民党政権と通産官僚たちが保証してきたから電力会社ほど楽な商売は無かった。幹部社員たちも楽な商いにどっぷり漬かってきたから、事故後の記者会見でも緊張感がまるでない対応ぶりで、本人たちは未だに気づいていない。
最後に、現在社会のありようを決定した戦後の力学が、一般国民がまったく見るも聞くもできなかった裏で蠢く勢力によって決定付けられたという事実を、ある断面から鋭利に切り取って見せた「下山事件 最後の証言(柴田哲孝著)」の一読をぜひお勧めいたします。
念のためですが、1972年まで米軍占領下にあった沖縄で54年に米国の出資でつくられた沖縄電力は9電力に含まれていません。
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