私の絵の師匠は池島勘治郎先生でした2013/08/12 18:15

 大昔、子どもの頃、近くの画塾=絵画教室に通っていました。4年間、絵を習いました。
教えてくださっていた先生の名前がどうしても思い出せず、長い間、もやもやした心持でした。美術界で活躍されている画家だったという印象は子供心に残っていました。

 長い間のもやもやが一瞬で明らかになりました。高校の同窓会名簿を眺めていて、同学年の生徒の名前が目に止りました。彼とは小学生時代、同じ画塾に通っていたなあ・・・と遠い時代のことが浮かんできました。彼、今何をしているんだろう?とネット検索をして見ました。そこで見つけたのです。先生の名前を。

 インターネットの世界、特に検索エンジンの力は、恐ろしくなるほどです。かっては、時間が経過すると全ては人間関係も含めて、忘却の彼方に消えていって二度と遭遇することはありませんでした。ところが今、ネット空間に散らばる情報と各種印刷資料とを組み合わせると、半世紀前に消滅したはずの過去の記憶がまざまざと蘇って来るのです。
 さらに確認するため、1986年8月16日に池島夫人の茂子さんが編集・発行した。『池島勘治郎作品集』を図書館で借りてきて読みました。池島家の住所が南炭屋町になっています。私も同じ町内に住んでいました。1959年に発行された一番古い大阪市南区の住宅地図を図書館で閲覧しました。池島家の裏には西横堀川が流れています。私の記憶にある絵画教室の位置とぴったり一致します。すべてが整合します。私が絵を教えていただいたのは戦前から独立美術協会で活躍した水彩画家の池島勘治郎(いけしまかんじろう K.Ikeshima)先生で間違いありません。
 7歳で初めて教室の机に座った私に先生は、心の中のものを描いてくださいと課題を出されました。森の中にうごめくお化けたちを描きました。最初の絵をすごくほめてくださりうれしかったことを覚えています。花や果物などの静物を描いていると先生が回ってきて筆を入れてくださいます。影を描くのに緑や青を混ぜて筆を入れられたのでびっくりした記憶もあります。

 教室の建物の前には広い庭があり、イチジクの木がたくさん植わっていました。イチジクを頂いて帰ったこともありました。『池島勘治郎作品集』を読むと「四ツ橋付近」の文中に「終戦後すぐイチジクの苗木を2本植えたのが、今では庭一面にひろがって枝もたわわに、実がはじけている。食いつくされぬので近所へおスソ分けする。戦前は庭木を入れても一年も育たなかったが、焦土には草木がよく茂るといわれるのは事実である。」と私の記憶と符号する話が出てきます。

 また、『池島勘治郎作品集』には、長女みちさんの「愛蔵の一枚」という一文があり「私が結婚する時に、父はどの絵を持って行くかと聞きました。私は橋の絵が欲しいと言いました。それが「橋」と題する大正14年帝展入選の20号の絵です。(省略)私が貰って行ったので3月13日の大阪大空襲の際にも焼け残り、本当によかったと思っております。残念ながら他はほとんど灰燼に帰してしまったのですから。」と書かれています。池島家は戦前、戦中、昭和20年3月13日の大空襲を経て、戦後も大阪市南区南炭屋町49番地に住み続けられたことを知りました。大阪大空襲に私の母も遭遇していました。アメリカ軍のB29からの焼夷弾投下で街は焼き尽くされ、炎に追われて地下鉄心斎橋駅に逃げ込んだと話していました。

 『大阪市全商工住宅案内図帳 南区 昭和34年版 住宅協会出版部編』から南炭屋町を引用しました。1959年(昭和34年)には、南炭屋町は旅館・ホテルといった業種に塗り潰されかかっていますが、池島家は元の西横堀川沿いの場所に存在しています。
1959年(昭和34年)の大阪市南区南炭屋町界隈住宅地図
 二ツ寺町の御津幼稚園跡地が私達子どもの遊び場でした。幼稚園は空襲で跡形も無くなりコンクリートの塀と門柱だけが残っていました。家に客があると久左衛門町のグリル明陽軒からカレーライスやハンバーグライスを出前してもらいますが、余分に私の分も頼んでもらえるのがうれしかった思い出です。南炭屋町交番は今も「アメリカ村」三角公園の一隅に残っていますが、周辺は危険な臭いが昼間でも漂っている街になってしまいました。
 今は大阪ミナミの歓楽街になってしまった南区南炭屋町ですが、『池島勘治郎作品集』を読むと、昭和20年代や30年代の情景が眼前によみがえり懐かしさで一杯になりました。